「ジェローム神父」を読んで

ジェローム神父 (ホラー・ドラコニア少女小説集成)

ジェローム神父 (ホラー・ドラコニア少女小説集成)

 SMのSはサド、サドとはこのジェローム神父の作者である、マルキ・ド・サド公爵を指す。そのサドをはじめとした暗黒・異端文学を日本に広めたのが、訳者の澁澤龍彦である。さらに、このジェローム神父の為に書いたのではないかと思うほどマッチしているのが、会田誠の絵である。サドの文学に澁澤・会田のエッセンスが加わったのが本書である。
 読んだ感想としては、サドの印象が想像と違ったことだ。てっきり本書はSMかと思ったが、そんな生易しいものじゃなかった。SMは悪魔で愛である。しかし本書に書かれているのは、完全な性的倒錯であり、嗜虐である。つまり俺の中のサディズムの意味を全く転換させる必要があったのだ。しかも本書ではその嗜虐の正当化すらしようと試みている!もっとも確かに"完全な性的倒錯"なんてもんはありゃしないとは思うけどね。完全な正統な性が無いことの裏返しである。それはあとがきに書かれている澁澤のコメントが面白い。
 さらに会田誠の挿絵がまたいい、いいっていうかなんというか…いろいろな批評で書かれている"とれたてイクラ丼"は確かに強烈だけど、個人的には「大山椒魚」がきれいで不気味で好き。そして「焼き蛤」がなぜか激しい不快感に襲われて印象に残っている。

 <ここからネタバレの可能性あり!!>
 先ほども書いたけど、サドは必ずしもSMでは無いんだなと、サディズムってのはマゾヒズムとついになっていると思っていたが、そんなことは全くなくて、サディズムサディズムで存在足りうるんだなということがわかりました。
 俺のSM像というのは、バタイユ村上龍によって形成されていて、この二人のSM像というのは、サディズムマゾヒズム潜在的性欲を発掘・解放するとともに、マゾヒズムは思考を停止し、必死に性にしがみつく、そしてサディズムマゾヒズムが性を解放することに対して性的欲求を得るという相互依存の関係だと考えていた。だからサディズムは一人では存在せず、また逆もしかりと考えていた。
 しかし、本書で記されていることは、ただただ一方的なサディズムだけである。ひたすらの嗜虐。己の欲求を満たすための性的奴隷を求めることだったことにショックを受けた。だからある意味何をするかは読者にとっては意味が無い。それは真似できるできないのレベルではなくて、究極の自己満足によるものだから、読者はこの本を読みながらそれぞれの心の奥底にある欲求を妄想することになるからだ。
 さらに最後にはその行為の正当化にすら挑んでいる。もちろんあきらかな詭弁ではあるのだが、詭弁らしく一見筋が通っているように見える。ただ、単純に封建制度のトップからみた都合のいい理論であるだけなのだけどね。
 まぁ俺のSM像とは違うが(別に俺にSM趣味は無いけどね)、"性倒錯の総目録"と言われる「ソドムの百二十日」を読んでみたいなとは思った。