光市母子殺害事件に対して死刑判決

 本村洋さんは事件当時、これほどの法に関する知識を持っていただろうか?またこれほど芯の強い人間だったのだろうか?経歴を知らないので予測でしかないが、多分僕らと変わらない程度の知識しかなかっただろうし、普通の人間だっただろうと思う。
 しかし1999年の事件ですべてが変わった。
 事件の詳細はwikipediaに譲るが、この残忍な事件に対する判決に対して、強烈な怒りを持つことで人生が思わぬ方向に進んでしまった。愛する家族に突如襲い掛かった不幸が、そしてその張本人のあきれた態度が本村洋さんを復讐の鬼に変えてしまったんだろう。そういう意味で、被告は3人を殺したに等しいのだ。
 残念なのは、この事件が安田というバカ弁護士によって、事件そのものを超越し、死刑制度廃止という思想を争う場に成り下がってしまったことだ。そのために先のWikipediaにあるとおり、ありえない主張を繰り返し、それがまた本村洋さんを苦しめることになってしまったことだ。安田は弁護士ではなく、ただの詭弁家でしかない。しかも三流以下のだ。
 といいつつも、僕個人の立ち位置を言っておかなければフェアではないので言っておくと、僕個人の立場としては死刑制度賛成派だ。本件のような凶悪事件において、また更正の可能性も低いと考えられる場合においては、死刑という罰則により抑止力としなければならない。死刑に処されるような人間が、そして更正の意欲もなく、いつかまた犯行を犯すかもしれない人間を世の中に出してはいけないのだ。
 もちろん、隣国のように誰も直接的な被害者のいない性犯罪や贈収賄で死刑というような状況はありえない。死刑は限りなく少なくないといけないが、殺人など人が生きていくうえでそれを阻害しうる重罪であり、更正の可能性が認められない場合、それは死刑に処するべきだというのが僕の考えだ。そして今の日本の司法制度や、世論の人権に関する考え方からすると、上記を適切に判別できる素地はあると考えている。だから日本においては(あるいはそれと同等以上の環境が整っている国では)、死刑制度は残しておくべきだと考える。
 死刑を無くして終身刑を、という理論もあるが、まったく賛成ではない。憲法の許す限り自由を奪うのが懲役であるが、自由を奪われたままの人生にいったい何の意味があるのか。ある意味では死刑よりも残酷であるし、すこし論点がずれるが、死ぬまで刑務所に入れるためにいったいいくらコストがかかるのかを考えると経済的にも意味がない。そして何よりも、被害者がいやでも被告を思い出してしまう、さらに受刑者が今回の事件のように反省していないとすると、更なる憎しみに生きなければならなくなってしまう。本村洋さんのように。
 本村洋さんが今後どのような人生を歩むかは知る由もない。今後も被害者の人権向上の活動を続けることも社会的意義としては非常に有用なことである。しかし、テレビを越して見ていた間、とても辛そうで本当は鬼になんかなりたくないという悲痛な心の叫びを感じた。だから新しい生活に、平凡で幸せな生活に戻ることができたらなぁと思えてならない。