「金閣寺」を読んで

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 前回の「潮騒」に続いて、「金閣寺」を読んでみました。こちらは「潮騒」とは違って、前評判どおりのドロドロ感たっぷりで、満足、満足。人はたまにこういうものが欲しくなるのです。特に俺は基本的に「こっち側」が好きなもので。
 出てくる人たちが抱える闇。彼らは何らかの問題を抱えている。抱えてはいるが、いつしかそれに支えられ、そこに自分を見出しすらしていく。その闇の純粋な深さを味わえます。
 小説の象徴である金閣寺は、1950年に放火にされます(現存するものは1995年に再建されたもの)。この小説はその放火犯を題材としています。事実とは違うところが大小含めていろいろありますけどね。
 やはり三島だけあって、文章そのものに酔えます。純文学の粋といえるでしょう。これを読んでいてなぜか「罪と罰」を思い出しました。確かにこれは名作だ。

 あらすじ
 貧しい家に生まれ、父親を若いうちに亡くした「私」は、住職だった父のつてから京都の鹿苑寺に預けられる。父から金閣は美といわれて育った「私」には、金閣が想像ほどではなかったと思う。
 極度の吃音のため、他人とのコミュニケーションをとることを避けて過ごしていたが、鶴川はそんな「私」にも分け隔てなく接してしてくれていた。
 こんな「私」だが、なぜか住職に目をかけてもらい、大学に入れてもらえることになった。しかしそこで、ひどい内翻足の柏木に会う。柏木は何も臆することなく「私」を「吃り」と呼ぶ。
 その頃、自分の中で金閣の存在が大きくなり、すべての美は金閣に集約される感覚を覚える。
 鶴川と柏木という両極端に囲まれながら、"唯一の美"である金閣に囲まれ、吃音という自らの体に囲まれ、大学生活を送っていき、ついに金閣を焼き尽くすことを思い立つ。

 <ここからネタバレの可能性あり!!>
 この話は徹底された対比によって語られています。自分の内外の対比が中心となり、鶴川と柏木、金閣鹿苑寺金閣を除く周辺)、田舎の神社で殺された女と京都で淫靡で厳しい別れをした女。淫靡で厳しい別れをした女とその後淫靡だけが残ったゆるい女、とさまざまな対比によって語られている。
 「私」は吃音により、想いが自分から外に出て行かない。やがて「私」は外とコミュニケーションをとることをやめ、自分の世界に安住しようとしていた。そんな自分の世界を暖かく包んでくれたのが鶴川であり、土足で乗り込んできたのが柏木だった。
 「私」は鶴川ではなく柏木を選び、その暗黒面に自らをゆだねて落ちて行き、やがて柏木すらを越えてしまった。
 しかし、最後生きるのを続けさせたのはなぜなんだろう?あえて史実と変えた理由は何なんだろう?なぜかこの小説を読んでいて「だまされた感」が残ってしまったのはなぜなんだろう?
 また、何年かたってから読んでみよう。いつかわかるかも。