制限の無いものに未来はない (2)

 さて、Part(1)の話と"燃える中国アート争奪戦 〜"日本・欧米・中国"世界が狙うお宝〜"という番組とどうつながるかというのが今回です。
 詳細はリンク先に譲りますが、あらすじとしては今中国のアートは欧米でトレンドとして非常に人気があり、いまや一枚15万ドルの高値がついたりする世界である。そして中国人アーティストが裕福になりさまざまな分野(レストラン経営や映画など)で活躍する時代になっている、と言うことである。
 この番組で取り上げられた芸術家の人たちが書くものは、中国の伝統的なものではなく、抽象画やポップアートといった欧米の絵である。しかし欧米の新鋭の画家たちが描くものは目新しいものが無く(均質化が進んだと表現していた。学問として発達しすぎたのかもしれない)、そのため中国の絵が新鮮に見えるために売れる、というのが理由だ。画家が書くとアメリカやら欧米の金持ちがアトリエまで買いにくるのだ。
 このときに僕はこれではだめだなと思った。画家が絵を売るときの雰囲気に危機感を感じた。画家は"今からビジネスだからちょっとでててくれ”と言った。いや、こう文面にするといかにも普通だが、何か絵に対して乾いた雰囲気がした。あくまで絵はビジネスの対象。俺の絵は高く売れる。と書くとちょっと言い過ぎかもしれないけれども、ちょっとお金に生々しい感じがしたのだ。新人が絵を売り込みに来たときもあまりに強気すぎる。この絵に5000ドル?えらい高いなと思うものばかりだ。
 彼らはあまりに環境が良すぎる。そしてはやりに乗りすぎだと思った。それは絵にもはっきり表れている。アメリカ人に売った絵には"ペプシ"をモチーフにしたポップアートポップアートと言えば聞こえがいいが、要はパクリだ。(すいません、僕自身がポップアートに否定的なのできつめです)
 彼らは買う側が欲しいものを書いている。そして富を築いている、と思ったときにこの番組に出ていた東京画廊の田畑幸人さんがほとんど同じことを言っていた。このままでは芸術の本質を逃してしまう、と。
 全くその通りだと思う。芸術と言うのは簡単に"書い手と売り手"で終わるもんじゃない。芸術ってのはメッセージ性が大事だと思う。そしていつも思うことは売り手の欲しいものを作ってるようじゃだめってこと。この時点で彼ら中国人アーティストは僕の中で失格だった。
 僕の中で本物の芸術というものは、買い手の想像を超えるものでなければならない。それがゆえに時に芸術家は誰にも理解されなかったことも多々あった。でも、彼らは苦しんだ分だけ、「工夫」をしたと思う。自分が書きたいもの、売れるものの葛藤もあっただろう。でも彼らは自分の書きたいものを書き続けた。もちろん肖像画を書いてパトロンを喜ばせたこともあったろうが…
 そう、パトロンというシステムは意外とうまいシステムだったような気もする。画家に金のことを気にさせなかった。大量に払うことは決してなかったけど、ある意味"生かせず殺さず"のいい"負荷"がかかってたように思う。そう人間には"負荷"や"制限"が必要なのだ。人はそれを失った瞬間、成長をやめる。
 今の芸術がだめになったのもそれが一因だと思う。特にモダンアートの中で、"あらゆる制約を取っ払って作った"なんてのが売り文句のものもある。超大作で額縁におさまらんようなものだったり、そもそも四角形でなかったり。それは僕にとってはマイナスでしかない。彫刻のような3Dのものよりも、絵画がすきなのも、画法を使って立体の物を平面に落とす過程で何かが産まれると思っているからだ。
 人が裕福になりすぎた。"苦しみ"というエッセンスが作品から感じられない。苦しみと想像と工夫とメッセージが一体化して昇華したものが本物の芸術だと思う。
 芸術家にとっては、僕の考えなんていい迷惑だろう。でも、僕にはそういう気がしてしかたがない。
 また話が長くなった。実はもうちょっと話したいことがある。また続きを書きます。