震災から10年…

 
 今日で震災からついに10年がたちました。神戸に住んでいた僕としては、やはり毎年この時期になると震災のことを思い出します。今日は家の近くの県公館に天皇・皇后さまがくるそうで、マンホールにはテロ対策のシールが張ってあったり、警察がうろうろしてたり厳重体制です。そしていつもは無い花壇がありました。
 以前の日記(8月20日)に書いたように、僕は本震を覚えていません _| ̄|○ 僕がおきたのは揺れではなく、母親の悲鳴と親父が助けに来るためにドアを開けたことに起こされたんです。なんか揺れを経験せず、被災者になるというのがすごいもったいない感じがします。親父が部屋に飛び込んできて、僕たち兄弟を助けに来てくれたわけですが、兄弟ともに爆睡…拍子抜けもいいとこです。おきるとわけがわからないのですが、すさまじい揺れを感じました(ただし、後でこれがただの余震だということを知る)。
 水も電気もすぐに止まった(なぜか少しの間だけ出た、どうも、本当は水も電気も通っていたが、修復や事故防止のためにわざと止めたようだ。水は最初出ていたがだんだんと濁ってきた…)。ガスは怖くて使う気にもならなかった。外に出ると世界が変わっていた。水が配給されて、夜は暗い生活。ライフラインの大事さを知った。そして親父の機転のはやさ、いざというときにやっぱり頼れることも知った。水の配給先の小学校へ行くと、友達がいた。その友達は家がつぶれて小学校に避難していたのだ。でも子供というのは無邪気なもので、震災の次の日から運動場でサッカーをして遊んでいた。幸い僕の友達に死人はいなかった。ただ後に、芦屋時代の友達の妹がタンスの下敷きになって死んだことを知った。僕は6年生の2学期に芦屋から神戸へと引越したのですが、芦屋で住んでいたマンションは潰れてしまった。半年引越しが遅かったらどうなっていたことか…
 当時6年生の僕は中学受験を控えていた。そのために吹田の親戚の家に一時転校することになった。しかし、一時転校した小学校は下町の小学校だったために、誰一人として中学受験する人がいず、しかも被災地からの小学生ということで否が応でも注目を集めてしまい、よく遊びに誘われてしまった。しかも、なぜかモテた…当然遊び呆けてしまい、k南中学撃沈。まぁ今思えば男子校のk南に行くよりも、共学の公立に行って、友達もできてよかったし、今はk南よりもいい大学にいるのでよかった。けれでも震災はこんな形でも僕に影響を与えた。
 今まで当たり前と思っていたことがすべて覆されたし、でも人のたくましさも知った、そして僕ら兄弟が親と2ヶ月も離れて生活することも初めてだった。この記憶は忘れないと思っていた。でも10年もたつと少しずつ、でも確実にイメージが薄れてくる。毎年この時期になるとこのころを思い出すが、それもうっすらとしてきた。だから今日は少し当時のことを書きとめておこうと思った。